みなとラボ通信

Read the Sea vol.1, 後半

2023.03.30

「海からもたらされる喜び」

 2022年の冬、わたしは7歳と4歳のこどもと水俣に立ち寄った。本渡港から、熊本県唯一の離島である御所浦島へ行くためだ。海上タクシーが出るまでまだ時間があったので、近くの海を散歩する。

 冬であっても、子どもは海を見るなり目を輝かせながら「服を脱いで入ってもい〜い?」と尋ねてくる。どうぞと答えるよりも早く、彼らは靴を脱いでいる。ぽんぽーんとあっというまに脱ぎ捨てられる衣服。

 輝く海へ、まっしぐらに駆けていく。海へつながる砂浜に深く残った彼らの足跡が、海への憧憬の深さを示していた。

 よく晴れていた。

 彼らは、海を遊んでいた。

 決して、海「で」遊んでいたのではない。海を我がものとして遊んでいた。海で育まれる生命を体現するかのように、彼らは遊んでいた。

 海からもたらされる深い喜びが、ある。

 海を遊ぶ彼らをの姿を見ながら、わたしはその喜びを思い出していた。

 宇宙があった。暗黒のなか、ガスがあった。ちいさな雫があった。雫は温まり凝縮する。46億年前、地球がうまれた。やがて気温がさがり、マグマの海に大雨がふりそそぐ。100年、1000年、雨はふった。そうして原始の海が生まれた。

 ある日、偶然、海のなかでいのちがはじまった。海に詰まっていたあらゆる栄養素が、長い時間をかけてゆっくり、いのちを育んでいった。

 それがいま、ここにある。

 43億年の時の果て、わたしの前にある。

 こどもは受け継がれてきた記憶に残る海への喜びと恐れの感情を、忠実に感じている。そう思えるほどに、彼らはいつまでも海と遊ぶ。その姿に感化されながら、わたしも自分のなかにもあるはずの海への深い喜びをふたたび感じていた。

 御所浦島への海上タクシーに乗る。久しぶりの船に興奮している子どもたちは、船首で海を見ている。船はざふんざふんとものすごい勢いで進んでいく。

 夕暮れが迫る。一日の終りもまもなく。そろそろ沈もうとする太陽は、いっそう濃密な赤で、辺り一面を鮮烈に染め上げている。遠くでは鯛の養殖場が見える。波しぶきがたつ。唇を舐めて、不知火海を味わう。しょっぱい。

 ふと不知火の意味が気になったので、スマホで検索する。8月1日の深夜、海上にまるで火がともったかのような蜃気楼現象だという。不知火。わたしはまだ見たことがない。来年の夏、不知火を見ようと船に揺られながら決意した。

 御所浦島の港が近づいてきた。日はすっかり沈んだ。海で暮らす人々の家の明かりがよく見えた。港のすぐそばで営まれる民宿からの迎えに、子どもは船首から大声で呼びかけて手をふった。

―早速撮影してくださり、ありがとうございます!

齋藤 機会をくれたおかげで、意識して海の撮影をすることができました。11月下旬だったけどめちゃくちゃ暑かったです。2週間後のいまは、めちゃくちゃ寒くなりました。

―では、今日もよろしくお願いいたします。改めて「海」というテーマで撮影してみていかがでしたか?

齋藤 子どもが大きくなって、子どもが海を存分に遊ぶ姿をみるにつけ、若いときとはまた随分と違う海への見方が生まれたなあと思います。若いとき、海はただ漠然とどこまでも広がってなんでも受け入れてくれる「雄大」というイメージしかありませんでした。ですが、水俣や福島の事故を思うと、命の連鎖というか、生活と深く関わっているということを実感します。限りあるもので、守らないといけないものだなと。

まず、自分自身がもっていたはずの、小さいときに感じていた海に対する恐れや喜びの根源的な思いがすっかり損なわれているなと思いました。

海で遊ぶ子どもの喜びがあまりにも深くて。彼らの喜びを、写真1枚にするとき、ただ「楽しそうに」しているだけの様子ではふさわしくないなと思いました。海を目の当たりにして、もっと深い、突き上げてくる喜び。同時に恐怖も。そうしたものがおのずと伝わってくるような写真をと思いながら撮っていました。

―テーマとしては、「喜び」というのがひとつのキーワードのような気がしますが、いかがでしょうか?

齋藤 「深い喜び」ですかね。ただの喜びではなくて。畏怖も含んだ、複雑な、深い喜び。

―撮影しているときから、そういうことを意識されていましたか?

齋藤 撮影しているときから、ですね。前々から海で遊ぶ子どもを撮影していましたが、海と深く結びつけてはいなかったので、今回は最初からそのつもりで撮影しました。これまでは波打ち際やビーチ、海岸が多かったんです。今回は御所浦島の漁師さんの船を1日チャーターして、島のいろんなところで撮影したんですね。そんな風に撮影自体がアクティブになりました。そうやって撮影してみて、船に乗って無人島に上がったり、1日波に揺られたりしてみると、やっぱり見え方は変わるし、感じ方も変わりますね。「ああも撮れたな、こうも撮れたな」とか、後々色々アイデアも浮かぶし、つくづく海にはいろんなアプローチがあるなあと改めて思いました。

―見え方、感じ方の変化とはどんな感じだったのでしょうか

齋藤 単純に船に乗っていると揺れるし、自分の希望通りのところで撮れるとも限らないので、なりゆきまかせというか、波まかせというか。自分でコントロールするのではなく、委ねる感じで撮影することが多く、それが面白かったです。

―御所浦島に行ったり、船に乗ったりしたときのお子さんの反応や感想はどうでしたか?

齋藤 た〜〜〜のしかった!また行こうねぇ!でした。

―撮影状況の物理的な変化(船など)とは別に、海と自分との関わりについて何か変化はありましたか?

齋藤 漁師さんも言っていたんですが、魚が減っていると。いろいろな理由はあるんでしょうが、僕もなんらかの形でそうした影響に関わっているはずで。何をどうすればいいのかは、いまはわからないんですが。でも、自分の暮らし方や、海に対する知識、認識を改めて行かないとなとつくづく思います。プラスチックは出したくないですね〜。でも、ゴミがどうしても出てしまう。どこからどう手をつけたらいいのか、どう考えたらいいのか、行き詰まっている感じがあります。頼りない答えですが。

―海への深い喜びを撮影を通して実感しつつも、海を取り巻く現実も同時に見えてきて、ここからというような感じでしょうか。

齋藤 本当にそうですね。海にフォーカスをあてて撮影しようとしてから、プラスチックのゴミがどこにでも目につきました。でも子どもは目を輝かせて遊ぼうとしている。そうした現実に愕然とする思いです。まず僕自身が海への深い喜びを思い出して、そこからの実感をもとに、海にできる行動を考えなきゃと思いました。海への深い喜びを忘れている人に、これらの写真が思い出すきっかけになれたらと思って撮影していました。共感が生まれるためには、問答無用で「あっ」と打ちのめされるようなものが、まず必要ですよね。なのでそう思って、大作をつくる意気込みで撮影に挑みました。

―大人への気づきを促せそうな気がするのですが、子どもたちに向けて伝えたいことはありますか?

齋藤 ううむ。むむ〜〜〜〜〜。ん〜〜〜。海でもっと遊びたいね、遊ぼうね、そのために僕は僕のできることをがんばります。ということかなあ。難しい。いま、僕が具体的な行動をできていないので、何をどう言おうとも理屈のきれいごとにしかならず、恥ずかしい限りです。いまはまだ伝えられることはないです。勉強して、行動を伴うようにします。それがいま僕のできることです。お天道様に顔向けできない、という気持ちと同じように、海に対して顔向けできない、という気持ちがあります。撮影してからより一層。気持ちじゃないか、恥の意識。子どもたちが、海に対する恥の意識を浮き上がらせてくれました。ありがたいです。

―それが撮影後の意識の大きな変化かもしれませんね。きっとこれからも海を含む写真が撮られていくと思うので、それを拝見出来るのをたのしみにしています!今日はありがとうございました。

齋藤 ありがとうございました〜

齋藤陽道(さいとうはるみち) 1983年、東京都生まれ。2020年より熊本県に移住。都立石神井ろう学校卒業。2010年写真新世紀優秀賞受賞。写真集に『感動』『感動、』(赤々舎)、『宝箱』(ぴあ)。エッセイ集に『それでも それでも それでも』(ナナロク社)、『声めぐり』(晶文社)、『異なり記念日』(医学書院)などがある。2022年には『育児まんが日記 せかいはことば』を発行。同年、Eテレ「おかあさんといっしょ」のエンディング曲「きんらきらぽん」の作詞を担当。写真家、文筆家としてだけでなく、活動の幅を広げている。好きな海の生き物はタコ。