みなとラボ通信
海のほんだな vol.5
2025.10.31
廣瀬カナエ(六本松 蔦屋書店・こどもコンシェルジュ)
子どもの育ちに寄り添った絵本の選び方について語る会を毎週開催。これまで学んだ、読み継がれる絵本の重要性や昔話の知見を活かしながらも、読み語りと即興演奏を融合したライブをおこなうなど、絵本を用いたさまざまな世代へのアプローチを問い続ける。
『ともだちは海のにおい』工藤直子 文/長新太 絵(理論社)
3歳の頃、辺野古の海でジュゴンの話をしてから水族館でマナティに出会い、それ以来ずっと海獣が好きな長男。文章が読めるようになった頃、「読んでごらん」と手渡したはじめてのお話がこの本だった。
体操とお茶が好きでせっかちないるかと、読書とビールが好きで哲学的なくじら。「ねえ、いるか」「なあに、くじら」とお互いのちがいを自然に認め合い、ほのぼのと物語は続いていく。
子どもたちがこれから出ていく広い海は、穏やかな波ばかりではないかもしれない。暗く冷たい底も見るのかもしれない。それでも、認めて認められる誰かがいるだけで、その海はあたたかさもよろこびのしぶきも教えてくれる。
この本を手渡したわたしも、おそらく受け取った長男も、そうなのかもしれないと感じている。だからきっと本棚のすぐ手の届く場所にいつもこの本があるのだろう。「海は大きくてやさしいんだよ」と大人としていつでもそう伝えられるようありたい。

『海のアトリエ』堀川理万子(偕成社)
成長期の子どもにとって、親でもなく先生でもなく、絶妙な距離で関わりを持つ大人がいることは、ときに人生の救いになることがある。その大人が子どもを子ども扱いしない人であればなおさらよいし、その環境が日常から離れた空間であるとまたなおさら、よい。海のない街で生まれ育ち、川が遊び場だったわたしは、この絵本に描かれる繊細な映画のような海の一枚一枚を夢中になって読んだ。作者がタブロー画家であることをのちに知り、納得したのだった。
「この子は、あたしよ。」おばあちゃんの部屋の一枚の絵から始まる回想。おばあちゃんが語るのは、海辺のアトリエに暮らす絵描きさんと過ごした、宝物のような夏の日々のこと。砂浜、揺らぐ光、水色の壁の向こうの海。少女がゆるやかに心をほぐし、ちょうどよい風を受けながら世界の見え方が変わっていく時間が、子どもと大人のあいだに流れるやさしい境界を描いている。実在の体験に根ざした作者の視線が、懐かしさを越えて”今を生きる力”へ接続する。鑑賞と読書が重なる一冊だ。

『ジャリおじさん』大竹伸朗(福音館書店)
「おかあさん、うみにいこうよ」とわが子たちに言われることがたびたびある。思いきって離島に発つこともあれば、そうもいかない夜にこの絵本を読み語ったことがあった。
はなのあたまにひげのある“ジャリおじさん”は、いつも海を眺めて暮らしている。ある日、後ろに続いていたのは黄色い一本道。ピンクのワニ、タイコでしか話さないタイコおじさん、もう一人のジャリおじさん、説明のつかないものばかりたちと出会い、青い神様を探しに出かける。せっかく出会った青い神様もそのままに、また海に辿り着く……。
あまりにナンセンスなものと対峙すると、大人は意味を見出そうとしてしまう。もう一人のジャリおじさんはなんだったのか、これは哲学なのではないか、とか。それに引き換え、わが子たちは海に行きたかったことなど忘れてけらけらとファンタジーの中に入り込んでいた。
現代美術家である大竹伸朗の作品の世界観がそのままお話になったような絵本。ナンセンスと評されようと、わたしは「青い神様」はきっと海にいるのではないか、と今でも思っているし、海で起きる説明のつかないできごとに出会うたび、ジャリおじさんのことを思い出す。

『とうだい』斉藤倫 文/小池アミイゴ 絵(福音館書店)
岬に一本、生まれたての灯台が立った。そこに立っているだけの灯台の前を漁船や客船、魚や鯨が行き交い、渡り鳥たちは遠い国の見たことも聞いたこともない話を聞かせてくれる。やがてやってきた大嵐の夜、どこへも行けない灯台は”ただそこにいて灯ること”で自分の役目を見つめ直し、全うする。そしてそれまでより、自分のことを誇らしく思えるようになる。
わが子たちがまだ幼く「どこへも行けないなあ」とほんの少し感じていたある日、この本を読んでいてはっと気づかされた瞬間のことを今でもおぼえている。わたしがどこへも行けなくともここにどっしりと誇りを持って立っていれば、この子たちがどこまでもどこまでも行って、そしてここに帰ってきて、見たことも聞いたこともない話を聞かせてくれるようになるのだ、と。それはわたしが見ることが聞くことができる話よりも、より鮮やかで美しいものであるはずだ、と。