みなとラボ通信

Read the Sea vol.6, 後半

2023.10.02

写真家が「海」をテーマに撮り下ろす連載企画「See the Sea」。vol.6は清水裕貴が千葉の海を撮影。生活のそばにある海は人とどう関わりあっているのか。

東京湾沿いの食事って独特の空虚さがある

―撮影、ありがとうございました!「海」をテーマに撮り下ろしていただいた作品はどのようなものでしょうか?

清 最初はいろんな海辺の廃虚で休息する人の記憶みたいなものを撮ろうと思っていました。海をみている人の空気感が出てくる感じです。でも以前「微睡み硝子」という作品でそれに近いものをつくっていたので、自分自身の思い出をよくよく反芻してみました。私は東京湾育ちなので、海は泳ぐとか魚を捕るものではなく、ガラス越しにみるものととらえているなと思ったんです。船橋、幕張、稲毛とかお台場のオーシャンビューのカフェやレストランには小さいときから何回も行っていて、その場所と自分の感覚について突き詰めてみようと思いました。結局ただカフェやレストランに行って、食べて、撮るという感じになりましたが。

―これまでの作品と地続きなんですが、また違った表現になっているような気がします。

清 だいぶ違うと思います。いままでの作品は割と広角気味で広い風景を撮る作品が多いんですが、今回は食事だし、狭い東京湾はどこを切り撮ってもいろんなものが写ってしまって、途中でレンズを変えました。被写界深度が少し浅めのレンズで人間の普段の視野に近いような画づくりをしています。リアルというか、身体感覚をそのまま出す感じでした。

―「食」の視点が入ると変わってきますね。

清 そうですね。ただ「食」を写すのではなく、その先に自分の肉体的な感覚とかその周辺にあるものを写せたらと思いました。海辺のレストランはこれまでの作品にも何度か登場していますが、どちらかというと食べることより、その場の雰囲気としてだったので、今回は食べ物そのものを撮ってみようと思いました。最初は海の幸とかが撮れればいいなと思っていたんですが、全然東京湾で採れた海の幸が出てこないんです。でも自分の食べているものと目の前の海がなんだかつながっているなと思いました。それはあんまりいいつながりじゃないのかもしれないですけど。

―いいつながりではない?

清 私はまさに埋め立て地に住んでいるので、生活排水とか糞尿も海に流れ出ている状態ですよね。その海をみながら上辺だけは優雅な場所で食べているっていうのがほんのり罪悪感があって、ちょっと憂鬱な感じやけだるさも感じました。東京とか東京寄りの千葉に住んでいる人が意外と持っている感覚じゃないのかなと思います。誰も自分のことを海の民とは思ってないと思うんですけど、心象風景の中に必ず紛れ込んでいる。都市生活のちょっと地に足が着いていない感じというか。だからこの暗い仕上がりなのも私の罪悪感ですね。なんなんだこの街は!って。
―罪悪感を感じるのはこの場所に生まれ、住んでいるからでしょうか。
清 私たちは対等に海とぶつかり合って癒されるのではなく、ふわーっとキラキラしているのをみてきれいと一方的に愛玩しているような状態です。都市の人たちの愛玩物みたいな。で、その割にそんなに大事にしているとは言えないという……。具体的な海に対する罪悪感プラス、海辺のレストランは圧倒的に人生をサボっている気持ちになれるんです。やっぱり東京湾沿いの食事って独特の空虚さがあって、ザ外食みたいな。この都市生活のだるい感じやふわふわした現実感のなさ、それがこの都市の感覚だろうなという気がするんですよね。

―それで「藻屑の空腹」というタイトルに。

清 食べても満たされない感じがあって、写真をまとめているときにふと浮かんできました。毎週末東京湾をみてオーシャンビューのレストランでおいしいものを食べているのに、どんどん都会独特の閉塞感を感じて、逃げたいって思いながら撮っていました(笑)。

東京湾は生き物の臓器の中にいるみたいな感覚

―東京湾は都市にある海の姿というか。

清 日本海側とは明らかに雰囲気が違うし、世界中の港町はこんな感じなのかもですね。お台場で撮影をしているとき、貿易船や観光船、屋形船とか船がひっきりなしで、東京湾は海も交通量が多いなと思いました。海というより都市にほとんど取り込まれていますよね。ワイルドな海に行くともうちょっと海というおっきな存在が押し寄せてくる感覚があるんですが、東京湾は湾だから波もないし、都市の肉体の一部になっているような感じがします。

―都市の肉体の一部ですか。

清 川は血管とよく言われますが、東京湾の場合は袋状の閉じた臓器という感じがします。海というより大腸とか小腸とか、そういう感じの存在だなと思いました。東京湾は汚いからあんまり直視しようとは思っていなかったんですけど、自分の臓器ともつながっているし、直接排泄物でもつながっている。それもあって「食」かなと。

―海を大きい臓器ととらえつつ、自分の体ともつながっているという新たな一面。それに対し、変わらない海の一面はありましたか?
清 元々海の水の姿そのものより、水に反射している光とか海辺の施設に入り込む光みたいなものに惹かれていたんだと思いました。ただっ広い反射板みたいな海はシンプルに好きだなと思います。でも海の水そのもののことはみていなかったかもしれないですね。

海は生活だと思った。めちゃめちゃ生活の匂いだなと。


―海と自分との関わり方でなにか変化はありましたか?

清 いままでの作品の中で、海はもう少し神話の生き物みたいに概念的に扱っていたとこがあるんです。未知の大きなものとつながっていたり、遠い過去とつながっていたり、そういう部分は依然としてあるんですけど、今回臓器を強く意識したことで、「自分の身体的生活に密着した感覚とつながっている海」を感じることができたかなと思います。

―生活で感じる感覚と海がつながっていると。

清 今回の撮影のために、屋形船に乗ったんです。そうしたら、いままでで一番海の匂いを近くに感じました。毎日の営業でエアコンのフィルターに凝縮した磯の香りが染み付いているんです。私はちょっと苦手だったんですけど、それがすっごく生々しくて、海は生活だと思ったんです。食べ物もそうだけど匂いの感覚が強かったですね。いままで海はもう少し光っているとか、ざわめいているとか、すごく遠い私的な神秘的な感覚を頼りに作品に使っているところがありましたが、めちゃめちゃ生活の匂いだなと思いました。

―前回お話を聞いたとき、叔父さんのお部屋からも磯の匂いがしたと。
清 叔父さんの掃除機のフィルターに海の匂いが詰まっていました。生臭い匂いなんですけど、時間が経っているからかもう少し淡い感じでした。叔父が死んでいるってこともあって弱々しい、幻想めいた匂いではあったんですよ。ただ屋形船の磯の香りは凝縮されてぎゅーんと鼻にきました。磯の香りプラス天ぷらの油とか生活臭全部が染みついて、ぎゅっと凝縮した生々しい匂いで、これぞ東京湾と思いました。東京湾って食べ物そのものがうじゃうじゃいるとこでもあり、人の糞尿が垂れ流されているところでもあり、いろんなものが凝縮されているなと思います。

―そう考えると東京湾はすごく生活ですね。海が視覚だけじゃなく、五感に訴えてくるというか。

清 きれいな海だと風があって、そんなに磯臭さは気にならないけど、多分東京湾は風がないからより匂いが充満して、生き物の臓器の中にいるみたいっていう感覚になりました。それは発見でしたね。

自分の身の回りを改めて撮ってみると、十分変な物語がある

―作品についてもう少しお聞きしたいのですが、今回は身近なところを撮られたこともあり、より清水さんの存在が近いように感じました。

清 はい。遠い物語とか亡霊とかじゃなくて、生活者としての自分のエッセイという感じになりました。お台場とかも久しぶりに行ったらレトロな感じになっていて、この辺で生まれ育っているので、自分の懐かしい思い出を巡っている感覚もあります。

―ご自身を投影するような作品は少し珍しいのかなと思ったりします。

清 そうですね。いままでの作品もなにかしらの形で投影はしていますが、そのまま主人公には持ってきていなかったので珍しいと思います。いままでは自分にとって神秘的な場所とか不思議な場所に出向いて撮ることが多かったんです。フリーテーマだったら身近なところは撮らなかったと思います。海がテーマだったので、自分にとっての海を考えました。すごく重要だけどあまり振り返っていないかもと思い、ここはちょっと強引に自分の周りをみつめたらこういう形で撮れました。海という縛りがなかったら撮っていなかったと思いますね。

―こちらは海というテーマを設けているだけで、どう撮られるかは写真家に委ねています。この機会にご自身の海を考えてもらえたのはすごく嬉しいです。

清 いままでは何か大きな遠い物語に引き寄せて自分の生活もつなげる感覚だったので、自分の生活そのものを撮るという頭はなかったですね。ふと思いましたが、武蔵美に入った最初の頃に出される課題で、半径500メートル観光とかいう、写真家は自分の身の回りをまず撮るべきだという教えがあったと思い出しました。そんな段階は終わったと思っていたし、大きなストーリーを求めたくなるからそういうリサーチをするのが好きだったんですが、自分の身の回りを改めて撮ってみると、これも十分変な物語があるんだなと思いました。

―自分の身近な海を改めて撮ってみたら、こそばゆい感じがあったりするのでしょうか。

清 いや、そんな親しくもないというか。やっぱり汚い海だなと思っていました。いまこの辺に住んでいなかったら郷愁を感じるのかもしれないですけど、まだ埋め立て地に住んでいるので、ずっとこのけだるさに包まれている感じです。でも実際に撮ってみると変わりますね。真面目にその場所に縛られて向き合うと、自分が想定していたのとは違うものがみえてくる感じです。

―それは撮り下ろしてもらうことの醍醐味だなと思います。海に関してもっと深めたい、知りたいということは出てきましたでしょうか?

清 自分の関心事が海の生き物の生態より、人の活動がどのように海に影響を及ぼしてきたのかというところにあるんだなと。埋め立て地の歴史もそうですし、他の国の港とか海運とかも気になりました。やっぱり人が行き来する場所としての海とか、沿岸に住む人々の生態や歴史とかをもう少し掘り下げてきたいなと思いました。

―食や生活を通して新たな海に出合えた気がします。これからの作品も楽しみにしています。

清水裕貴(しみずゆき)

千葉県船橋市生まれ。2007年、武蔵野美術大学映像学科卒業。2011年に第5回写真「1_WALL」グランプリを受賞。2016年に三木淳賞受賞。小説家として2018年、新潮社R18文学賞大賞を受賞。土地の歴史や伝承のリサーチをベースにし、写真と言葉を組み合わせた表現で作品を制作。精力的に作品を発表し、展示も行なっている。近年では、「百年硝子の海」(千葉市民ギャラリーいなげ、2021年)「微睡み硝子」(PGI、2022年)などがある。近著に「花盛りの椅子」(集英社)、「海は地下室に眠る」(KADOKAWA)がある。好きな海の生き物は「ペンギン」。