みなとラボ通信
Read the Sea vol.18
2023.06.30
『Voir la mer』ソフィ・カル(ACTES SUD)
島国日本において、成人してなお海をみたことのない人はどれくらいいるのだろうか。フランスのアーティスト、ソフィ・カルは、トルコ内陸部に住む、これまでに一度も海をみたことのない人たちを海辺に連れ出し、海をみつめてもらい振り返るまでの時間を映像作品として提示した。概念としては知りながら、目の当たりにしたことのなかったものを目にした人々を観るというこの多重構造から感じることは人それぞれだろう。しかし、彼らと私たちの間にはそう大きな違いはないことを見逃してはいけない。多くの物事を体感する前に情報として識り、実際に起っていている出来事にリアリティを感じることが困難な現在、彼らが海を前にした際のような、眼前の世界とのふれあい方はもはや稀少で困難なものなのだ。みているようで目にしていないもので世界は溢れている。同作は2011年、渋谷のスクランブル交差点でも上映され、多くの行き交う人々の足を止めたという。
『ちくま文学の森 10 とっておきの話』より「Kの昇天」梶井基次郎(筑摩書房)
内陸部である京都市に生まれ育った自分にとっての海は二つ。ひとつは、カラッとした晴天に文字通り白い砂浜が開けた夏の南紀白浜、もう一つは父の好むかに料理をたらふく提供してくれる料理旅館を訪ねた冬の日本海。幼い自分にとって、好ましいのは圧倒的に前者であり、薄暗い海辺の旅館で夜中に聴こえてくる波の音は、どこか不穏な印象を抱いていた。しかし、歳を重ねるにつれ、荒天や夜の海の魅力もそれなりに理解できるようになった。月光が浜辺に映し出す影に魅了され、月に吸い込まれるようにして入水死した男をイカロスの飛翔に重ね合わせて描いた梶井基次郎のこの幻想的な短編も、ただただ不吉な印象ばかりを抱いていたが、この歳になってから読むと随分読後感が違う。人が生まれでてきて、いずれ還る場所。生と死、みるものの状態や時期によって正反対の姿をみせるのもまた海である。
『Relax リラックス 2003年5月 75.5号 NEW WAVES by TAKASHI HOMMA』(マガジンハウス)
全ページ波の写真、しかしどれ一つとっても同じ瞬間はない。写真家ホンマタカシは今作以外にも波の写真集を刊行している。しかし、自分にとって本書は特別だ。その理由は、これが雑誌「Relax」の増刊号として刊行され、雑誌コード付きでコンビニなどにまで流通したことだ。コンセプトを説明するテキストも著者の言葉もない、ただ淡々と見開き立ち落としで波の写真だけが掲載された印刷物が、漫画雑誌や週刊誌と並列にスチールのラックに並ぶ様は、火炎瓶のかわりに花束を投げるような行為として20年前の自分の目に映った。あるいはマルセル・デュシャンの『泉』。アートであれ写真であれコンテキストによって大きくみえ方が変わる。「ただの波」を繰り返し取り続けることでその多様さを提示し、それを美術館でもモニターでもなく、コンビニのマガジンラックで展開することで、一抹の静けさと飛沫を町に与える。編集の力を目の当たりにした一冊である。
『羊をめぐる冒険』村上春樹(講談社)
1960年代に始まった神戸市の埋め立てによる海岸開発は「山、海へ行く」と称された。文字通り山を削り、その土砂で海を埋め立て、沿岸部に人工的な町を開発したのだ。当然それによって、かつての砂浜は姿を変え、波打ち際を裸足で歩くような行為が地元の人々から奪われる。そのタイトルから連想されるように、北海道での「冒険」の印象が強い村上春樹の初期作のラストで主人公は、著者自身が生まれ育った西宮~芦屋と思わしき神戸の沿岸部を訪れ、変わり果てたコンクリートの海辺を前に泣き崩れる。失われた神戸の海岸と、主人公の喪失が重ね合わせて描かれているのだ。海の喪失は、あらゆる読者にとって身に覚えのある喪失に重なり合う。このような取り返しのつかない愚行は、今もなお私達の周りで日々進行している。安易で明快なコピーこそ疑ってかからねばならない。
京都にある恵文社一乗寺店にアルバイトから入り、2015年まで店長を務め、退社。同年11月に独立し、京都市上京区河原町丸太町の路地裏にて新刊書を中心とした本屋「誠光社」をオープン。著書に『本を開いてあの頃へ』、『本屋の窓からのぞいた京都』、『街を変える小さな店』などがある。店内奥にあるスペースでは展示やイベントが開催され、出版も行っている。