みなとラボ通信

Read the Sea vol.25

blackbird books/吉川祥一郎

2023.08.18

さまざまな選書者が「海」をテーマに選書をする連載企画「Read the Sea」。vol.25は大阪府にある本屋「blackbird books」の吉川祥一郎さん。

高校生に読んでもらいたい「海」に関する本

『新装版 苦海浄土』石牟礼道子(講談社)

「水俣病」を四大公害病のひとつとして「歴史」の授業で学び、原因と結果を知り、知識のひとつとして頭の片隅に入れて置くことは容易い。教科書にはユージン・スミスの写真が載っていて、強烈な印象を残したかも知れない。けれどどんなに残酷な出来事も歴史上のひとつの出来事として多くの人には忘れ去られてしまう。「苦海浄土」という不可解な題名、あるいは石牟礼道子という名前も教科書に載っていたかも知れない。けれど学生の内に実際に読んでみた人はごく僅かだろう。

文学は喜怒哀楽という感情を一人一人の登場人物に込め、読み手にその感情を全力で、大声で、あるいはほとんど消え入りそうな声でぶつける。「いのちの文学」と呼ばれるこの小説は「人間」のつくった水俣病という世界でも類をみないほど残酷な病が、登場人物にいかに襲いかかったかを「物語」を通して描かれる。そして苦悶する人間の背景には美しく光る海が描かれる。教科書には書かれない一人一人の苦しみを書くことで、歴史上の出来事が自分に起こった出来事として受け止められる。小説にはそういう力がある。 原型は『海と空のあいだに』という題で発表された。

大人に読んでもらいたい「海」に関する本

『リリアン』 収録「大阪の西は全部海」 岸政彦(新潮社)

地図をみるとなるほど「大阪の西は全部海」だ。けれど大阪に暮らす人は普段「海」を意識することはほとんどないのではないか。大阪の外に暮らす人も「大阪」と聞いて海をイメージする人はほとんどいないだろう。大阪の「海」とはどんな海だろう。砂浜にパラソルが立ち、白波が静かに音を立てている。夕陽が水平線に沈んでいく。半透明の海を魚が泳いでいる。上下に揺れる船の上で釣り糸を垂れている。埋め立てた土地の上にクレーンが並び、煙突が音もなく煙を吐いている。岸政彦の書く海はそのどれとも違っている。ここには暗い大きな穴が書かれている。穴のまわりを寂しい気持ちを抱えて、でもそれを表には出さずに、人々は歩いている。その穴は、夜の海のように時々波の音だけが聞こえたり、時々光に照らされたり、そして何かを飲み込んでいく。

この短編は最初から最後まで女性の関西弁の語りだけで構成される。人生が一人称であるように。そしてある時期から人生が暗い穴と生きていくことを避けられないように。大人のための寂しい小説。

自分にとっての「海」に関するお気に入りの1冊

『Puglia. Tra albe e tramonti』Luigi Ghirri (MACK)

イタリアの写真家ルイジ・ギッリ(Luigi Ghirri)は1982年に初めて訪れて以来、イタリアの「かかと」にあるプーリア州へ10年間通い続けた。白壁の続く街並み、独特のアーチ、色とりどりの玄関や窓、石畳。地中海都市の風景は日本に住む我々を魅了するが、同じイタリアに住む写真家にも余程魅力的に映ったのだろう。200点近くが収録された本作ではその美しい街並みを堪能出来る。

海が登場するのは後半だ。海そのものよりも「海のある風景」がそこにある。入江、漁港、砂浜、防波堤のレンガ、窓越しの海。いつまでも残っていて欲しいと思わせる風景、つまり環境だ。ギッリは著書『写真講義』でこう語っている。「環境破壊の背後には、愛着の喪失があると思うからです。この三十年、四十年の間、人間はそれを推し進めてきました。 ~中略〜 世界と関わる手段として視覚表現を回復することは、文化的に大きな重みを、大きな影響を持ちうるはずです」。

現在はこの語りから三十年以上経つ。SNSの普及により視覚表現は激変し、環境にどのような影響を与えているのかは計り知れない。「海のある風景」は穏やかさとは別に大きな問いを私たちに投げかける。

海は出てこないが「海」を感じられる1冊

『ごろごろ、神戸。』平民金子(ぴあ)

大阪の西が全部海なら、神戸の南は全部海、ということになる。

2019年の年末に発行されたこの本は、一読して私の年間ランキングの一位に一気に躍り出た。ページをめくる手が止まらなかった。私が神戸出身ということを差し引いても恐らくこの年のランキングは揺るがなかっただろう。一時期テレビでやたらと流行った(いまも流行っているのか?)散歩番組ならぬ散歩エッセイだが、ひとつ他の散歩系(あえて「系」と呼ぶ)と決定的に違うのは語り手である著者がベビーカーを押していることだ。

意外に思われるかも知れないが神戸は昔からの商店街や個人店が比較的残っている都市で、坂道が多くしんどいところもあるけれど街歩きが楽しい街だ。著者は親として、父親として、東京からの新参者として、酒やお菓子を買いながら地元の人々と交流しつつ、様々な理由で変わっていく街を絶妙な距離で観察しながらベビーカーを押して歩き続ける。全体を通してほのぼのとした空気が流れているのは著者の文体に寄るところも大きいが神戸の南には穏やかな海が広がっているからだと私は思っている。

この活動は日本財団の助成により実施しています。

選書・文:
「blackbird books」吉川祥一郎

大阪、御堂筋線の緑地公園駅側、マンションの1階にある本屋「blackbird books」。文学、アートブック、写真集、絵本、小説、詩などの本を中心に取り扱い、展示やイベントも行う。不定期で、花店「note」を店内でオープンしている。

住所:
大阪府豊中市寺内2-12-1 緑地ハッピーハイツ1F
営業時間:
10:00-19:00
定休日:
月曜、第3火曜日
https://blackbirdbooks.jp/