みなとラボ通信

Read the Sea vol.32

トンガ坂文庫/本沢結香・豊田宙也

2023.11.03

さまざまな選書者が「海」をテーマに選書をする連載企画「Read the Sea」。vol.32は三重県にある本屋「トンガ坂文庫」の本沢結香・豊田宙也さん。

子どもに読んでもらいたい「海」に関する本

『いのる〈五感のえほん7〉』文:森崎和江 絵:山下菊二(復刊ドットコム)

漁村に暮らす人々の、日常的な「いのり」を描いた森崎和江の絵本。

漁に出たお父さんが無事に帰ってきますように、あわび獲りで痛めたおばあさんの目がよくなりますように 。海の神に、山の神に、みんなのささやかな祈りが届けられていく。

絵は山下菊二がつけている。全編を通して多く描かれる海は、場面ごとに色を変える。誰かを待つ不
安や期待、潮の香りや山の風までも、紙面を飛び出してこちらに迫ってくるようだ。

私と住まいを共にする猫は、元野良猫だからだろう、毎日外に出かけずにはいられない。「開けろ」
と乞われて玄関の戸を開くと、さっさと走り出て行ってしまう。その背中に、思わず「気をつけてね」
と声をかける。きっと帰ってくるだろうことはわかっているけれど。私も毎日そうやって小さな「いの
り」を積み重ねている。

世界がそんな「いのり」に満ちているということにふと気がついて、心が少しゆるんでいく。そんな
絵本だ。

大人に読んでもらいたい「海」に関する本

『海への巡礼』岡本勝人(左右社)

海とのつき合い方は様々だ。子どもの頃は、海は泳いだり浜辺に寝そべったりするところだった。
ひょっとすると、途方もない質量をもって迫りくるものや、この星の大きさや軌道について考えさせられるものでもあったかもしれないが、もう思い出せない。

歳を重ねるにつれて、郷愁や自由の感覚がついてまわるようになった海は、そばを歩き、眺めるものになりつつある。

そしていま、この本を読むとき、詩人の追想とともに世界各地の文学と海岸線を巡るこのエッセイで、私たちはあたらしく、海への巡礼を考えてみることになる。おびただしい数の文学者や作品に出会うことになるのだが、丸石の敷き詰められた海岸で気になる石を拾い上げるように、この次の読書へと誘われるのが心地よい。たとえばブルターニュから熊野へ、中上健次からプルーストへ、一文ごとに移り変わる風景と情動を追っていくこの読書体験こそが海への巡礼なのかもしれない。

自分にとっての「海」に関するお気に入りの1冊

『PAINT/ING/S』Chrissy Angliker(Neidhart + Schön AG, Zurich)

何年も前に人からいただいて、ふと思い出しては時々ページをめくっている。

スイス生まれで、いまはニューヨークをベースに活動を続ける、Chrissy Angliker。まったく知らないアーティストだったが、ひと目で気に入ってしまった。

この本の収録作品は「水」がテーマのものが多く、海の青や、ビーチの白が目に留まる。
少し離れて眺めると、人の体や海といったものがぼんやりと像を結ぶ。しかし近づいてみてみると、カラフルな絵具の塊が大胆に重なり合い、一体それが何だったのか、よくわからなくなってしまう。

もはや立体作品と呼べそうなくらい厚く塗られた油絵具は、具象と抽象の間を漂い、イメージをとらえたと思ったら、またスルリと逃げていってしまう。みればみるほど引き込まれ、みる度に新たな発見がある。

ぷかぷかと浮かぶ人、泳ぐ人、ビーチでくつろぐ無数の人。表情など読み取れないのに、なんだかみんな愉快で、気持ちがよさそうだ。こちらまで満たされるようで、楽しい。

海は出てこないが「海」を感じられる1冊

『ブルースだってただの唄 ー黒人女性の仕事と生活』藤本和子(筑摩書房)

1980年代のアメリカで、釈放前の受刑者たちが暮らす施設の臨床心理医と、そのまわりの女性たちに聞き書きして編まれたこの本。題名は、ひとりの女性が子どもの頃に聞いた「ブルースなんてただの唄」という言葉からつけられている。悲惨なブルースではなく、彼女たちは「ちがう唄だって、うたえる」。このページを読んで思い出したのは、紀伊半島の南端近くの港町、那智勝浦にいる、ひとりのブルース・ギタリストのことだった。黒人でもなく、英詞で歌うわけでもない、港町の風景のブルース。

海のことには関わりのないこの本に、たぶん一箇所だけ、海が登場するページがあって、それは百四歳の女性が語る若い頃の旅の思い出だ。岩がちの海岸に沈む太陽がどこでみるよりも美しかったと話す彼女は、生まれて初めての海水浴で溺れかけて以来、海に入ることはなかった。この本に記録された、いまなお続く抑圧の遠くなりつつある記憶とはべつに、こんな他愛もない思い出話が妙に心に残る。海のある風景を手がかりに、彼女たちの記憶を読む。

この活動は日本財団の助成により実施しています。
選書・文:
「トンガ坂文庫」本沢結香・豊田宙也

三重県の漁村・九鬼町の小さな路地にある新刊・古本を扱う本屋「トンガ坂文庫」。「トンガ」とは九鬼町の言葉で“大風呂敷を広げる人”という意味。

住所:
三重県尾鷲市九鬼町121
営業時間:
11:00-17:00(土日祝)
定休日:
月曜〜金曜日、そのほか不定休
https://www.tongazakabun.co