みなとラボ通信
Read the Sea vol.37
2024.02.16
『海辺のカフカ』上下巻 著:村上春樹(新潮社、2002年)
「君が14 歳くらいになったらこの本を読むんだよ」ー もし自分に子どもがいたら、そう言ってこの本を手渡すだろう。
「大人になる」ということが、どういうことなのか未だよくわからないので、自分にできることがあるとするならば、考える機会を与えることや、この世界を歩むヒントのようなものを周りに散りばめるくらいなのかもしれない。
人生というものが、いかに不平等で危険なところであると同時に、人間という行為が美しく残酷で謎めいていて、それなのに、それでいて行うに値するということを、この物語は、ある少年の姿を通して教えてくれる。
(きっと)少なくない人たちが、主人公のカフカ少年のような人生や生い立ちは望まないかもしれない。それでも僕らの人生にも、この物語を凌駕するような境遇や出来事が起こらないと、誰が断言できるだろう。
『カンガルー日和』より「5月の海岸線」著:村上春樹(平凡社、1983年)
かつて海だった場所は埋め立てられ、高層アパートが立ち並び、海は遥か遠くに押しやられていた。12年ぶりに街を訪れた主人公が様々な記憶を辿る。
その街へ行くと、どうしても思い出してしまう記憶や情景がある。かつてはそれが自分を励ましたこともあれば、現在となってはそれはもう何の役にも立たないこともある。「もう終わったんだ」と言ってしまうのも悲しいときもあれば、「もう終わったんだ」ただそれだけのことと、そこに自分の感情がないことに気づくこともある。
時間が流れ、自分が変わり、街も少しずつ変わっていく。そうすることで、ひとつの出来事がBGMを変え、色彩を変え、そのシーンの文脈さえも変えてしまうのだ。「ずっと忘れない」と自分に誓ったことでさえ、残酷なまでに忘れてしまうのが人間なのだ。それが大人になるということなのだろうか。
『波の絵、波の話』著:村上春樹 写真:稲越功一(文藝春秋、1984年)
海に行ったとて、やることは人それぞれである。泳ぐ人はもちろんいるだろうけれど、海に入らないという人もいていいし。彼ら(彼女ら)は肌を焼いたり、本を読んだり、人を眺めたり、ビールを飲んだり、誰かを想ったり。海の大らかさは、あらゆる行為や遊びを受容する。
稲越功一の海や海にまつわる写真に、村上春樹のエッセイや訳詞から翻訳まで、いろんな文章をカジュアルに、幕の内弁当のように詰め込んだ(ような)、この書籍もまた随分と大らかな印象だ。
ARもVRもない80年代に、人間の記憶と想像力だけで海まで連れて行ってもらい、イメージの中で大きなラジカセをビーチに置いて、カセットデッキの再生ボタンを押せばドアーズのジム・モリソンのあの声が聞こえてきそうな、体験のような読書。
『夜のくもざる』より「フリオ・イグレシアス」著:村上春樹 絵:安西水丸(平凡社、1995年)
夜に襲ってくる海亀から身を守るために、彼らが原理的思考のなかから出した答えはフリオ・イグレシアスの「ビギン・ザ・ビギン」で対抗する、という手段だった—。
いったい何の話だ?って話なのだけれども、恐ろしく短く、”荒唐”が”無稽”で、とにかくロクでもない話でありながら、何とも言えないウミガメのスープのような極上のユーモアを提供してくれる物語なのだ。少なくとも僕にとっては。
そんな今でも、この世界のどこかの孤島で、海亀の足音を感じ、息を飲みつつフリオ・イグレシアスのレコードに針を落とそうとする人のことや、そのレコードから流れる「ビギン・ザ・ビギン」にもがき苦しんでる(であろう)海亀や、命を取られないために126回もその曲を聴き続けた後に、つまり生き残った彼らのその後の人生を思うと少しだけワクワクしてくるのだ。
この活動は日本財団の助成により実施しています。
東京・駒沢で「ヒト・モノ・コト」との出会いを楽しめる場所というコンセプトの自称“出会い系本屋”。本屋を通して「文化的雪かき」をおこなっている。店主は村上春樹好き。2023年から移動本屋も開始。